昨日、一昨日からの続きです。
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バリの波に乗る
湘南、千葉、静岡、新島でサーフしてきて、
さらに違う波に乗りたいと感じるようになってきた。
そんなとき、無料でバリに行けることになった。
なぜ無料かというと、
バリグッズを売る社長と一緒にバリのクタという街に行って、
そこにある豪邸に泊まりつつ、サーフしまくって、
ディスコに行って、おいしいロブスターを食べていいが、
帰りの飛行機は私の商品を持てるだけ持って帰ってくること。
こうして書くと、
密輸業者のようで危ないような気がするが、
その頃はそんなことは全く思わず、
「クタクタになったらどうしますか?」
そんなつまらないジョークを飛ばしつつ、
甘い花の香りに包まれたデンパサール空港に到着したのが22時。
恐ろしい運転のタクシーでそのクタビーチまで向かった。
翌日はハーフウエイ。
しかも豪邸から徒歩5分。
3日目はレギアン。
ここは新島より流れが強く、そして分厚い本格的なビーチブレイク波だった。
遙か彼方でブレイクするエアポートリーフの波に乗り、
波面とはここまで硬いものかと恐れ入った。
また長い滑走距離と、冬でも裸で入れる温かい海に感銘を受け、
その旅が終わってからすぐにまたバリに行こうと決意し、
翌週には、三週間のバリ旅に出た。
当時ーーきっと今もだろうがーー
物価が違うということにカルチャーショックを受けたので、
当時の金額をここに記しておきます。
一泊朝食付きの400円の宿に泊まって、
前出したブレイクはもちろんのこと、
チャングー、ウルワツ、マドウィー、ヌサドゥアの波に乗っていった。
当時のバリニーズ・サーファーだが、
5人くらいが超人的に上手く、
その中でもマデ・カシム、
カトゥ・メンダたちが伝説のサーファーとして、
別格扱いでその名を知られていた。
さらに20人くらいは世界でもプロクラスのサーファーだった。
その中にワヤン・ピッチャ、ワヤン・ネッカたちがいて、
後に名が知れるバリニーズは初心者にもなっておらず、
サーフィンというのはそこまで普及していなかったように思えた。
リザール・タンジュンは、マデ・スイトラたちと同じくまだ子どもで、
ワヤン・ジョディ家の前の中華飯店『ジェミニ』がおいしく、
毎晩そこに通って晩餐していた。
とはいっても、
ジェミニならどんなにぜいたくをしても150円程度で、
ごくまれに行くポピーズ・レストランは、
王家の晩餐会と見間違うほどの豪華絢爛さで、
とても値が張り3000円くらいだった。
なので、ポピーズに行くには到着後すぐでないと、
通貨価値になれてしまうので、
3万円くらいの食事に感じられてしまい、
それから2度と行くことはなかった。
ちなみにヌサドゥアはアウトリーフで、
通常はカヌーでブレイクまで渡してもらい往復200円を支払っていたが、
これをパドリングで行くことにより節約し、
ダユ2というレストランで分厚いステーキが食べられて、
こちらがカヌーと同価格ということで、
節約した日はステーキランチということをしていた。
バリは、ところどころの道だけが舗装された程度で、
埃が舞う砂利道の横で、
ハエを払いながら食べたそれは辛いナシチャンプルの味。
ファンタやコカコーラのボトルを集めていて、
バリでは、昔のグレープやオレンジのラベルボトル、
さらには見たことのない「ストロベリー」「レモンライム」まで発見し、
大興奮しながら集める意味でも1000ルピア=当時12円でガブガブ飲んでいた。
毎日、いくらでもサーフィンできたが、
なぜか途中から飽きてきてしまい、
大山マスタツさんの精進するという思想が薄れてしまい、
「やばい、こんなことで自分はプロにはなれない」
そう感じたほど、修練の意味が薄れていき、
堕落までは行かないが、
真冬の真夏日とファンタまみれを終えて、
湘南に戻ってきたボクでありました。
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明日の「4」に続きます。
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現実の今日ですが、
私たちは大きな出荷日があり、
今週のほとんどをそれに集中し、
集荷トラックがロスアンジェルス国際空港に向けて去って、
南西と南、そして北西のミックス波を満喫してきたところ。
夕陽もこのように、
遠くに、そして親密に世界を包んでいきました。
みなさんのすばらしい土曜日となりますように!
Have a fantastic Saturday!!!
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